2007年1月28日日曜日

重要な港説

九州王国であったとすると、幾つかのブログでは、水俣寄航説が唱えられている、だいぶ年代が下がるが
源為朝が、遠征の為の出向港ともなっており、かなり大きな港として昔から使われていたんではなかろうかと思う。参考にさせていただいたブログは、少しづつ載せていきます。

3 件のコメント:

antique さんのコメント...

色んなブログで最終上陸地が水俣近辺で1月歩くと邪馬台国に辿り着くことになっているんだけど、地形的に見て佐敷で降りて人吉ー西都ルートか水俣で降りて大口ー都城ルートが東に向かうには、1000メートル級の山を避けて歩くにはもっとも便利と思われるのだが、直線距離で東端まで100kmなのに1ヶ月かかるだろうかと今考えています、1ヶ月歩いたと書けば、実際には水俣近辺から何処行ったのかわからなくなる、それが狙いだったりして、それに水俣から沖縄まで行っていた可能性があるとすれば陸地歩行しないで船でぐるっと回ってもよかったのではないかな、隼人と中が悪かったのかな?

antique さんのコメント...

水俣湾の中の袋港が有明海から見ると3重湾になっている、長崎にはいっぱいあるだろうけど、水俣近辺じゃ少ない、佐敷、出水に船を着けるよりも安全である
月の浦と言うのがあるが、穏やかな湾で
きっと月がおぼろげに映るんではないだろうか。後気になってるのが恋路島の形
ヒトデみたいな星みたいな形してる。もひとつ気になってるのが、湾から500m離れたとこに、潮の干潮に合わせて干潟になったり沼になったりするとこがあるらしい。さらに気にはなってないんだが、水俣湾の元の大きさがわからないということ、南福寺までは貝塚があったからかなり大きかった言うことがわかれば私としてはよいのである。

antique さんのコメント...

日本古代史復元のサイトを見ると、知らないことだらけ、岡山の地名に美和山、さらに袋湾が尾張の語源で、ヤマタノオロチ、確証はないが東大でてる人はちがいます、チラチラ読んでいると精練が重要なキーワドになってきた弥生製鉄遺跡
指宿遺跡にしかないらしいが、水俣の多々良で発見するのだ。